Texted by 勝俣泰斗(@taito212)
写真家、荒木経惟。通称アラーキー。
丸縁めがねがトレードマークの彼の作品は、観る人をドキッとさせる。
「卑猥だ。性暴力だ。」「いやこれは芸術だ。」
論点はそこにはない。
#Me tooの時代。被写体となった女性の告発を皮切りに、芸術と女性の問題を巡る論争が起こっている。
先日、ニューヨークのセックス博物館で開催中の個展『THE INCOMPLETE ARAKI: SEX, LIFE, AND DEATH IN THE WORKS OF NOBUYOSHI ARAKI(未完成のアラーキー:荒木経惟の作品のセックス、生と死)』に行ってきた。
セックス博物館での荒木の個展。
「不完全さを維持する写真を作りたい。スピードや存在、熱、湿度。そういったリアリティを失いたくない。だから俺は完成して洗練される前を写真に立ち止まって収めたい。」
エロティックで挑戦的な彼の作品が常に議論を呼んでいたことは知っていたので、その点では中立的な目線で鑑賞しようと決めていたのだが、この時点ではアラーキーが被写体の女性の告発問題の渦中にあることを知らなかったので、僕は文字通りなんの先入観も持たずに作品を鑑賞することになった。
写真家荒木経惟
荒木経惟(写真:WWD)
荒木経惟 | Nobuyoshi Araki
1940年5月25日生まれ。写真家。ヌード写真や人物写真を得意とするが、花や都市を対象にした作品も多く、人情味溢れるスナップ写真も有名。1990年に、亡くなった妻陽子の写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』が話題になる。2013年には、前立腺がんによって右目の視力を喪失するも、77歳になった今もなお精力的に活動を続けている。
アラーキーの作品
「作品は、発表されないと意味がない。」
そう語る荒木の作品数は膨大で、この個展でも、約150枚のプリント作品と500枚に及ぶポラロイドが展示されている。
展示は、「強迫と情熱」、「戦後日本」、「芸術的アイデンティティ」、「論争」の4テーマで構成されていた。
「愛する人を撮りたいと思うのは自然なことで、おかしなことは一つもない。」「彼女(たち)は、元気を与えてくれ、インスピレーションの原点であり、美そのものである。」
と荒木は言う。
妻陽子とエロトス
荒木の作品を語る上で欠かせないのは、妻陽子の存在。荒木は、いつもカメラを持って、陽子の姿を捉えた。
食事の時もカメラを離さない荒木。
当時、日本では個人的なものを作品として発表する「私写真」がなかった中、荒木は陽子との生活や関係の中に個人的な理解と解釈を加えて写真に収めた最初の写真家だ。
何気ない日常の一コマの写真の中にも、陽子の飾らない表情や自然な雰囲気から、荒木と被写体のフラットな関係性を感じる。
妻の陽子は、エッセイの中でこう話している。
「私が一人ソファで喘いでいても、私の肉体は単に投げ出された肉体ではなく、彼の肉体としっかり繋がれている肉体なのであり、夏みかんを食べる手が写っている写真では、こちら側にいる彼もやはり夏みかんを食べて、その夏みかんの匂いのついた手のままシャッターを押している情景、とゆーのが私には感じられるのだ。」
「私が写っていても、そこには彼の姿が色濃く投影されている。私の写真ではなく、私と彼の間に漂う濃密な感情が写っているのである。」
『愛情生活』―「〈ノスタルジアの夜〉ふたたび」
セックスという行為がチャレンジングなテーマではあるが、行為の中にある私的な感情や完成性を作品にしたという点が、彼を天才と言わしめるところだろう。考えてみたら、セックスは写真家と被写体の距離が物理的にも感情的にも最も近づいた瞬間であり、両者の関係は対等になるということを示している。
また、荒木の根本には「エロトス」というコンセプトがある。
エロトス
ギリシャ語の「エロス(性愛)」と「タナトス(死)」を組み合わせた造語で、「セックスは死と絡み合っている」という荒木の作品の重要なコンセプト。
性的な花びらのイメージや、豪華でピカピカのインテリアなど、物事がピークに達した瞬間の中に、同時に全てが崩壊してしまう怖さや憂いを含んでいる。
陽子の死:センチメンタリズムと荒木の死生観
1990年に陽子が死んだ時も、荒木は彼女の姿を写真に捉えた。
「今ようやくスタートラインに立った気がした。自分の人生を生きるための。でもそれは幸せな旅ではなく、死に向かう旅だ。」
陽子の死は、荒木の死生観に大きく影響を与えたという。
陽子の死後、以前から荒木のテーマだった「センチメンタル」というコンセプトで、4作目となる写真集「センチメンタルな旅・冬の旅」を刊行した。
「生きることはセンチメンタルなことだ。必ず孤独を思い知らされ、私たちは本当は全員孤独だということに気づかされる。」
荒木の作品を巡る論争
「論争」のテーマのパートでは、「日本の性的描写に対する規制」の論争、「アラーキvs西洋」の論争、そして「写真家とモデルの関係性」に関する論争の3つが提示されていた。
日本での性的描写に対する規制は、想像に難くないと思う。いわゆるモザイクがどうだの。公的な作品としてどうだのと言った類の話だ。
興味深いのは、後者の2つ。
「アラーキーvs西洋」というパネルでは、荒木の捉える女性像を西洋の視点で観ると、「東アジアの女性は服従的でエロティック」であるという人種差別的なロマンティシズムと結びついているということが書かれていた。オリエンタルでエキゾチックだという解釈が、荒木作品の人気の一因でもあるとのこと。
緊縛美
荒木が作品として発表する「緊縛美」に対する意見には、2つの立場がある。
一つは、陽子との話でもあげたように、作品は「写真家とモデルの親密感を表現するもの」とする立場。
荒木は、モデルと性的・感情的に深い関係を築いていて、主体的にモデルと関わることで作品を共同で作っていると語っている。荒木は、女性を礼賛し、モデルとなる女性を「愛人」、「パートナー」、「ミューズ(ギリシャ語で女神の意)」と呼ぶこともある。
展示中にあるインタビュー動画でも、モデルの女性が「写真家のアラーキーが自分を愛してくれているのが分かるから、さらけ出せる」と言ったことを話している。
一方で、緊縛美に関して、「服従化・女性を性の対象物としてみている」という批判的な立場もある。
展示では、あくまで両方の論争を中立的な立場で論じ、解説されていた。
写真家とモデルの関係性論争
写真家とモデルの親密な関係から生まれる作品があると、荒木本人やモデルも述べる一方で、以前荒木作品のモデルとなったある女性が、「撮影時に荒木に性的虐待を受けた」と、昨年フェイスブック上で告発した。
作家とモデルの関係に関して個展側が言及したり、注目されることは稀だが、女性の体を扱う作品を男性アーティストが制作する時の複雑な問題にフォーカスを当てて、来場者に是非の判断を委ねる形で展示されていた。
アメリカでは#MeTooの「セクハラや性的暴行の被害体験を告白・共有する動き」が広がっていく今、現代の女性の在り方を問題提起するタイムリーな個展として評価される声も多かった。
そして、まさに個展会期中の#MeTooムーブメントの中で新たな告発が話題になった。
#MeTooの動きの中で新たな告発問題
KaoRiさんの告白
16年にわたってアラーキーのモデルをつとめていたKaoRiさんがnoteにて自身の想いを告白した。
3月31日に『その知識、本当に正しいですか?』と題して投稿されたnoteには、アラーキーとKaoRIさんの関係を巡る赤裸々な想いが書かれていた。
内容はパートナーになった経緯、撮影内容についての同意書がなかったこと、無断で写真集が出版されたこと、報酬がほとんど支払われなかったことなど、衝撃的な内容ばかり。さらには、脅迫に近い形で、荒木経惟へ名誉毀損などの行為をしないという同意書にサインをさせられたこともあるとのこと。関係改善を求める手紙も、放置され、挙げ句の果てにはモデルをクビにされたという経験を語った。
私について「現在のパートナーであり、ミューズ」と書いた記事もありました。曖昧にされたまま、勘違いされ続けるのは辛いので、とってもとっても怖いけれど、自分の言葉で綴ろうと思いました。
いつの間にかミューズと呼ばれるようになり、個展のオープニングや取材、公の場などにも同行するようになり、時間的な拘束も増えていきました。撮った写真は、事前の報告もなく、いつの間にか私の名前をタイトルにした写真集やDVDにもなり出版され、世界中で展示販売されてゆきました。
撮影は、報酬を得ていたこともありましたが、パフォーマンスなど、無報酬のことも多々ありました。
それでも、”アーティストがお金の話をするのは恥ずかしい。それを乗り越えてこそいい表現ができる。”と言われ何も言い出せなくなり、彼の持論「私写真」「写真は関係性」「LOVE」「ミューズ」を信じて私なりに理解して、貢献しているつもりで飲み込むようになってしまいました。
たくさんの人がいる前でわざと過激なポーズをとらせて、自分の手柄にするような言動をされたり、撮影と聞いてスタジオに行くと、自分のプロモーションのための取材撮影で、勝手に部外者を入れてヌード撮影を強いられたことも何度もありました。
「ミステリアスで、なんでもする女」というようなイメージを公に晒されたことによって、日常生活は長い間、ストーカー被害に悩まされていました。
「俺の女」「ミューズがいるから死ねない」と自分にとってあたかも大切な存在のように使われる時もあれば、「娼婦」「マンションは買う必要のないレベルの女」「私生活は一切知らない」と都合に合わせて表現されました。
写真自体が本当に「FAKE」なのかなと実感を持ってうっすら気付いたのは、本当に、かなり時間が経ってからのことでした。
芸術という仮面をつけて、影でこんな思いをするモデルがこれ以上、出て欲しくありません。一度撮られたら死んでも消してもらえない写真芸術という行為の恐ろしさを、今になって一層強く感じています。
この内容は、すぐさまネットで話題になった。
水原希子さんの告白
告発の動きに乗じて、以前アラーキーの作品のモデルを務めた女優の水原希子さんもInstagramのストーリーに自身の体験を綴った。
#MeTooの動きの中で、告発したKaoRiさんを皮切りに、アラーキーの「モデルとの関係性」の論争は現在進行形で浮き彫りになった。
アラーキー擁護の声
そんな中、同じく写真家の横木安良夫はアラーキーを擁護し、自身のサイトで、2人の問題は以前性的虐待を受けたと言う女性とは全く別のケースであり、愛憎問題であると書いた。
KaoRiと荒木が恋人に近い関係にあったと推察し、荒木に飽きられて男女の関係が綻びたKaoRiが荒木へ「リベンジ」しており、荒木は被害者だと記した。
芸術という特殊な、現代においての価値観は、憲法よりも上にたつ。芸術とはすべてを疑うこと。新らたな価値観の創造だからだ。人間のわがままは何かを考える深く考えること。
荒木経惟は最初から女性の擁護者ではない。ストレートに女性を搾取していた。それこそまやかしの愛ではなく、生と死と愛と憎しみをコラージュする、それこそ真実の愛なのだ。
KaoRiさん今あなたがすることは、荒木経惟を許してあげることだと思う。直接謝ってもらう必要はない。お金をもらったところで、あなたは救われることもない。許してあげてください。
同じ芸術家とあって、横木氏の言い分はかなり芸術的な観点によっている。コメントでは、横木氏の意見を『セカンドレイプ』と呼ぶものもいて、反対のコメントも目立っていた。
現在のKaoRiさん
KaoRiさんは、その後4月13日に新たに投稿したnoteの中で、こう語った。
ピカソだってロダンだってウォーホールだって、スキャンダルがあっても、今まで語り継がれる芸術家です。でも、芸術の名の下に人間をモノ扱いするのは、もうこれで終わりにしてほしいというのが私の願いです。
#MeTooの動きがなかったら、いまもドキドキして怯えながら日常生活を送っていたんだと思います。2年前は死ぬことしか考えられませんでしたが、いまは過去は過去として丸ごと受け止め、この経験がどこかの誰かの役に立てばいいと思っています。#MeTooのおかげで自分の意思を表明したいという気持ちになれました。とても前向きな気持ちです。
初めから、荒木さんへのバッシングではないと言っていたKaoRiさんは、荒木さんの作家としての姿勢が変わらないことはある種、諦めの気持ちで受け入れた上で、今後事実関係を探るための取材などにはご対応できないと述べた。
私見
#MeTooの動きとあいまって、荒木経惟の作品とモデルとの関係性に関する論争はこれからも議論されるだろう。
横木氏の私見は、ネットではかなり叩かれていたが、僕個人で言うと正直共感できる部分もあった。横木氏が言うように、KaoRiさんの場合は、以前に性的虐待を受けていた女性とは話が違うからだ。
まず、Kaoriさんの告発の内容は、女性蔑視云々より、労働環境の問題であること。巨匠の作品に携われることに誇りを持っていたし、親密に扱われることにも喜びを感じている時もあった。
「私は表現者として、写真家としての荒木さんを尊敬していましたし、作品のために裸になることには誇りを持っていました。私は芸術に貢献しているつもりでしたが、都合よくモノのように扱われていたんだと気づいたのです」
労働環境が悪くなった時、相手が巨匠であるが故に言い出せなかったことや、改善を求めても何も変わらなかったと書いているが、その時点でなぜモデルを自発的に辞めるという選択肢に至らなかったのかと思う。
もちろん、自分が強い立場にいるのに、モデルに無理強いをするのは、ハラスメントであり、権力を使った暴力だと思う。女性をモノとして扱ったり、モデルに対するぞんざいな態度や、劣悪な労働環境は問題だし、荒木さん本人に非がある。それは荒木さんの人格の問題だ。ただ、15年もモデルを続けて、「名前を出すのは嫌だった」「写真に残るのが恐ろしい」と言われても、途中で辞めればよかったじゃん。と思ってしまった。(立場を利用して、留まらざるを得なかったのかも知れない。それは本人にしか分からない。)
ただ結果として15年間もモデルをする決断は、写真家の巨匠のモデルになるメリットとデメリットを天秤にかけた結果、続けることを「自分」で選んだのではないのかと。単純に自分が抱いていた荒木経惟の姿が理想と違うことのギャップに傷心し、リベンジをしたとも思える。(実際に、彼女は「リベンジ」という言葉を使っている。)恋愛感情をぶつけたようにも見える。
「芸術はすべてを疑うこと」であり、表現の自由を失った芸術はつまらないものになる。
篠山紀信の誰にでも分かる「甘くて官能的な女性像」のアンチテーゼとして台頭した荒木経惟の表現は、芸術としての価値はあると思うし、必要だったとも思う。
ただ、現代において女性蔑視や昭和的な女性のあり方は見直されるべきだと言う考え方は全くその通りで。KaoRiさんの告発は、それを再確認するきっかけになった。そして、アラーキーの言う「女性礼賛」や「対等な立場で作品を作る」ことが説得力を持たなくなることは確かだ。ただ荒木自身が良い人なのか悪い人なのかは、どうだっていい。
荒木の作品が反面教師的に、時代遅れの東洋的な美的感覚の一つとして歴史の文脈に残ったとしても、それはそれで芸術としての役割をはたすことになる。
今後、#MeTooの時代に、荒木作品を巡る論争はどう受け取られていくのか。荒木が問題提起した「女性の在り方」、「美の在り方」をどう受け止めるのか。そして、社会がどう変わるのか。それは鑑賞者に委ねられている。
Texted by Taito Katsumata(@taito212)
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