こんちは!たいと(@taito212)です。
僕は、記事でもお伝えしたように年末年始でUEAに行ってまいりました。
旅企画を終え、個人的に美術館に行きたかったので探したところ、なんと2017年の11月にアブダビであのルーブル美術館ができたという情報を手に入れたので、行ってみました。
美術館には、アンリマティスあモンドリアン、ゴッホなど名だたる芸術家たちの作品が展示されていて、アート好きの僕としては行ってよかったなぁと思ったんですが、その中にはもちろん知らない作品もたくさんあるわけです。
昔の人の考えは分からない
美術に興味がない人からしたら、美術館の楽しみ方って難しいと思う。
いちお美大生の僕からしても、見方がどうしても分からないものってたくさんあるんだよね。
コンテンポラリーアートとかって、まだ解説見たり、自分たちの解釈を入れたりとかできるんで、救いようがあるんだけど、昔掘られた土器的なやつとかの見方がマジで分かんない。
例えば、庭の土掘ってて、こんなのが出てきたら俺が考古学者でもテンション上がると思うの。
なにこれやべー。
絶対何かしらのすげーやつじゃん!これもしかしたら、ギリシア神話のトロイアの神官ラオコーンとその2人の息子が海蛇に巻きつかれてるあの情景を彫刻にしたやつじゃね????
くらいは想像できると思うの。
ま、一発でそこまでたどり着くやついたら感動だけど、少なくとも信仰の表明とか伝承の目的だったりとか、何かしら人間の意図が製作されたものっていうのは一目瞭然だと思うんだけど、俺が「見方が分からない」って言ってるのは例えばこういうやつ。
「なんだか細長い土器に模様が描いてる。」
もし俺が最初に見つけたら、「すげー。」ってひとしきり見た後、粉々に割って、川辺で水切りとか始めちゃうと思うんだよね。
専門家に言わせたら、色々あると思うんだよ。
遺跡跡の土のそうの堆積状況を見て、時代を特定したり、土器の特徴を形、素材、作り方から分類して、変遷の状況からいつ頃のものなのかを特定して、時代背景からこの土器の使われ方を想定したり。
土器が見つかった周辺の生物の遺体の炭素の濃度の減少具合から時代を特定したりね。
結果、これは狩猟採集社会の時に作られたものだから、村の人が集めた果実を砕いて入れていたに違いない。
とかいうことが出来るわけ。
ただ、あくまで考古学者にしたって、その土器がどれくらいのニュアンスで使われてたかってことにまでなると、もう妄想でしかないんだよね。
例えば、この土器はちっちゃい子供たちが夕食待ってる間にその辺で適当に集めた土粘土をベタベタくっつけて、模様を描いてみたレベルのものなのかもしれないし。
当時、自称世紀のアーティストの村の変わり者が、友達もいなくて、「どうせ俺の作品なんて理解されないんだぁ」って嘆いた挙句、家の隅っこで作ったものが、何世紀も後に見つかって、美術館に展示されてるかもしれないし。
いくら時代が特定されたって、その土器自体がどれくらいの立ち位置で、その時代に存在してたかなんてのは、当時の人に聞かないと分からないわけ。
そんなことを考えると、俺思うんだよね。
ちゃんと「これはこういう意図で作りました」ってどっかに書いとけよ!!!って。
それか、「子供にでも、「これってこんな意図で作ったんだよ」って伝えとけよ!!って。
伝達するということ
僕は今22歳。自分が生まれた1995年には地下鉄サリン事件があり、6歳の時には同時多発テロが起きた。
まだ若いって思ってたけど、今の大学1年生だって、もう21世紀に入ってから生まれてる子もたくさんいるから、びっくりする。
僕が中学生の時は、まだLINEなんてなかったとか、CDを聴いてたとか。今の中学生からしたら、年寄りの話を聞いているみたいに聞こえるんだと思う。
20世紀の話なんて彼らにとっては歴史の授業でならうやつかもしれないけど、僕が生きた時代なんだよね。
逆に考えると、僕が生まれた時はロシアはソ連ではなくロシアで、ベルリンの壁はもうとっくに壊されてた。
これもほんのちょっと年配の人にしてみれば驚きなんだと思う。
そんな具合に遡ると僕らの親の世代は、僕らが歴史でしか習わない高度経済成長を経験していて、そのさらに親の時代にはアフリカ大陸の多くの国は独立してないし、教科書や映画でしかみたことない第二次世界大戦を経験してたりする。
そのまた親、つまりひいおじいちゃんとかのレベルになると、さらに前の第一次世界大戦とかの話になってくる。
親を伝って3、4人も介せば簡単に100年以上前にタイムスリップできるんだよね。
キリストが生まれたってされてる紀元1年(正確にいうとその1年前)だって、親の親の親の・・・・って感じで、80人くらい辿れば当時の話聞けたかもしれないわけ。
そう考えるとすごくない!?
何年かに一度正月に、親戚で集まる機会でも設けて、めんどくさくったって”じいちゃんの話を聞く会”でもやれば、口伝えとは言え、昔の話がリアルに聞けるんだよ。
ただ、それができなかった。だから、なんの意味なのかもよう分からんこんな土器がいけしゃあしゃあと存在してるわけ。

僕は書いて残さないといけない
この前2017年を振り返った時、今まで使ってたスケジュール帳で1年をみて思ったんだよね。
「あれこんなことあったっけ?」
「うわー、日記でも書いとけばよかったー。」って。
はるか未来に、未来人がいざ現存する今の歴史の遺産を振り返った時、それじゃダメだなって。
単に土器がどう・・とかいう話で終わらない。
僕らが、「戦後」っていう言葉を聞いて、1945年以降を想起することができるのは日本が1945年以降に戦争をしなかったから。
つまり、歴史を教訓にして、二度と戦争はしないって国民が思った(多分)からその後戦争が起きてない。
これと同じで、個々の経験は大したことないにしたって、経験を歴史として語りつぐことに価値はあると思うだよね。
僕の息子が、さらには僕の孫が辿り辿って、僕のブログを見つけるかもしれない。「勝俣泰斗が生きた証だ!」とか言って。
息子や孫が、もしかしたら自分のルーツはこのブログの中にあるかもしれないって、期待を寄せてこのブログをみた時に
「あれ?なかなか更新されてない。めんどくさくて書いてなかったのかもねー」
だったら、めっちゃもったいないと思うの。
2018年の今、22歳の僕がどんなことに苦しんで、どんな感情を持って、どんなことに楽しみを抱いていたのか、それを自分の子孫が知ったらもしかしたら人生の糧になるかもしれない。
そんなことを思って僕は、ブログを書かないとなって思いましたとさ。
もしかしたら、数百年後の正月に親戚中の笑い種になってるかもしれないけどね。
そん時は、数百年越しに子孫のお茶の間を爆笑の渦に巻き込めるようなボケを今のうちに書いとかないとなぁ。
そんなことも思いました。
おしまい。