表現には見る人が解釈する余白をつけろ。〜映画は2時間じゃ終わらない〜

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たいと

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手作りのオーバーオールで放浪する手ぶら旅人。2018年夏〜世界一周手ぶら旅予定。旅×表現をテーマに脳内をアウトプットします。

【旅の楽しみ方には3種類ある】

旅をしています。
旅が好きです。
だから旅の話から入ります。

未知との出会い、人との出会い、人類が残した世界の遺産、雄大な自然、ハプニングも全部含めて旅が好きです。

旅に出る前、ドキドキしながら航空券とって、頭ん中でどんなトコなんだろうって創造して、パッキングして、いちおちょびっと計画立てて。

いざ旅に出ると、既存の価値観ぶっ壊されて、今まで気付かなかった自分に気付けて、計画なんて狂いまくりで、来るはずのバスが来なくて、渋々諦めたら、そのおかげで巡り合えた刺激的な旅人との出会いがあって。

そんな旅人との話はおもしろくて、行きたい場所がまた増えて、一緒に旅しても同じ景色見たって感想って全然違って。

前に行ったことあるところに行っても、”今”のジブンでみるとまた違う景色に見えて。

旅が終わると余韻に浸って、旅の思い出振り返りながら飛行機乗って、日本に帰ってからも海外で会った奴との再会があって、そいつらと別れてからの旅の話をシェアして。

旅って行く前も、旅中も、そして終わった後も楽しさってあるんです。だからやめられないんです。

【作品を鑑賞することで生まれる時間や空間も作品の一部】

そこで思ったのが、世界に溢れてるコンテンツって全部そうだってこと。

映画だって、本だって、音楽だって、なんだって。

すべてのエンターテインメントは、それを鑑賞する前の気持ちとか、鑑賞後に友達と議論する時間とかそういう空間も含めて、それぞれのエンターテインメントだと思うんです。

たとえば、映画を観て個々が勝手に受け取るそれぞれの感じ方も映画によって生まれた感情なので、映画の一部だと思います。

小説を読んで、「これをあの人に読んで欲しい」って思う気持ち、「この本良いよ」って言って、友達に本を貸しに会いにいく時間、好きなセリフを友達と共有する空間。それも小説の一部だと思うんです。

一人で鑑賞するにしたって、やっぱり小さい頃に観たジブリ映画が大人になって観ると全然違うメッセージを受け取ったり。

だから映画とか、小説とか、音楽っておもしろいんですよね。

そう考えると、そういったコンテンツの楽しみ方って無限にある訳で。

前にインタビューで酷評された映画監督が、「そういうつもりで作ったんじゃない。こういうことを伝えたかった。」と言っていたんですが、表現者としてホントにそれでいいのかなって思ったんです。

自己表現としての映画で、はなから大衆にみせるために作られたエンターテインメントでないのなら話は別なんですが、あくまで幅広い人のために作られた映画なのだとしたら、この映画監督の発言は表現者として未熟だって思いました。

楽しみ方に幅を持たせる、って意味では「こうやって受け取って欲しい」ってメッセージを押し付けるだけの画一的な作品は映画2時間分のおもしろさ(+ちょっと)しかなくて、むしろ物議を醸したり、議論ができる”余白”っていうものを残した作品の方が深い価値を持って、映画として愛されるんだと思います。

【伊集院光と桜井和寿の共通点。表現の余白】

それに関連した興味深い話があって、僕、お笑い芸人ってかタレントの伊集院光さんがめちゃくちゃ大好きなんですね。

「伊集院光の深夜の馬鹿力」っていうラジオ番組を耳にデカめのタコができるくらい聴きまくってるんですけど、その伊集院光さんとこれまた僕の大大大好きなMr.Childrenの桜井和寿さんが昔テレビで対談してた時にまさに僕が感じたようなことを話してたんです。コンテンツや表現の”余白”に関する話です。

もともと桜井さんが伊集院光さんのラジオの大ファンで、桜井さんの方から出演したいということで、共演するに至ったらしいんですが、一見何の共通点もなさそうなラジオで活躍する伊集院さんと音楽で活躍する桜井さんには表現者としてのおもしろい共通点があったんです。

桜井さんがコンサートの時の”共有”感の話をしている時に、「一つの歌があったら、いろんな人が自分を投影しながら聴いている。桜井さんの個人的なものだった歌が会場の3万人の歌になるっていう瞬間が嬉しい」ということを言っていました。

それは声だけでストーリーを伝えなくてはいけないラジオを舞台とする伊集院さんにとっても同じ話で、こんな例えを使って話していました。

「松の木にオジヤをぶつけたみたいなブサイクな顔の女」っていう表現が好きだそうで、”松の木のゴツゴツ感とオジヤをぶつけた吹き出物感と乾燥肌ではない”くらいの情報が入ってるという、言葉としてはめちゃくちゃ自由度が高いけど、リスナーそれぞれが自分の中で会ったことあるブスをイメージして話を聴くことができるっていうんです。

テレビだとそれに一番合ったようなイメージ写真をCGなり、モデルを用意するなりして視聴者に伝えればいいだけの話ですが、声だけで伝えるということはリスナーにそのイメージを委ねるという”余白”を生み出すことができるわけです。

ラジオパーソナリティ一人の物語がみんなの物語になれるというところが、やはり桜井さんのいうライブの共有感とも共通していて面白いと思いました。

桜井さんは歌詞を書く時もそれを意識しているようで、「星座でいう星を並べるようなイメージで歌詞を書いてる。例えばサソリ座なら、”サソリに見える”ところに星を配置するのが歌の役割」と話していました。

さらに、「それらを基にサソリの絵を描くことはアーティストでなく、リスナーの役割なので、聴く人全員が一つのサソリを思い浮かべるような星(歌詞)の配置は避けよう」という話でした。

この2人の対談を聞いて、やはり、多くの人に愛される表現者というのは、表現の中に”余白”を残していて、受け取る側がそれぞれの人生を投影できるような作品を生んでいるんだって思いました。

そしてひとつの表現がみんなのものになり、それがいろんな議論が生むし、人が関わる空間や時間を生む。

表現者の手元を離れた後にでも、その受け取り方が規定されない表現がエンターテインメントであり、それを楽しみ、誰かと共有したり、過去の自分、今の自分と照らし合わせたりするのが映画や小説、音楽といったコンテンツの楽しみ方なんじゃないかって思いました。

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